一緒に行き場をなくして
特に意味もなく残業して、ひと段落したところでそろそろ帰ろうか、と思いつつひとまずトイレに向かい、右側に並ぶ洗面台を通り過ぎ、左手前と奥に2列ずつ、全部で4つある個室の一番奥にある扉を開けようとしたときに、あっ、と思った。突然のことだった。そのとき私は、その日同期の女の子と交わした、なんてことない会話を思い返していた。
「あっ」と思う7時間前も、私はトイレにいた。新宿駅ビル内のトイレ、彼女が出てくるのを待ちながら、私はその日寝坊したせいで未完成だったメイクに取り掛かろうとしていた。まずは、食事のせいで落ちてしまっていたリップを塗り直すところから。私たちはここに来る前に、韓国料理店で昼食をとっていた。彼女はチゲラーメン、私はスンドゥブつけ麺。少し塩辛いことを除けばとてもおいしかった。そしてその真っ赤なスープのせいで、私の唇の周りは少しオレンジ色を帯びていた。丁寧に拭き取り、色つきリップを滑らせる。それから、アイラインを引いた。
右目を引き終わると、小柄な彼女がひょこりと洗面台に現れた。手を洗い、私の方を見ると、「ライン引くの上手いね!」と一言投げかけた。それに対して私は確か、えーそう!? とか、ライン引くの難しいよねーとか、なんだかよく分からない返事をしたと思う。私はどういうわけか、褒められたときの返事にいつも戸惑ってしまう質だった。どう返せば失礼がないだろうとか、相手が「褒めて良かった」と思ってくれるだろうとか、自慢げにならないだろうとか、余計なことばかりが頭に渦巻いていく。そして散々迷った挙句、口から飛び出る返事はどうしようもないものばかりだった。
私は本当に会話が下手くそだ。左目のラインを引きながら、どこかに落ちているはずの正しい言葉を拾おうと必死になっている。それでもアイラインは綺麗に、私の左目尻で飛び跳ねる。
それから私たちは業務の買い物を済ませ、重い荷物を抱えて電車に乗った。9階にあるオフィスに戻り、買ったものの仕分けをする。それが終わると彼女は先に帰り、残った私は特に意味もなくパソコンを見つめていた。いい加減帰ろう、けどその前に、とトイレに立って、私は個室の一番奥の扉を開けようとした。こうして7時間が経った。
思わず足が止まる。私はなんだか、どうすればいいのか分からなくなって、小さな声であーーとかなんとか言いながら、とりあえず個室に入った。個室に入ってからは、しばらくそのまま突っ立っていた。そしてまた、あの時に発されるべきだった正しい言葉を探し始めた。
改めて考えてみると、「正しい言葉」なんていくらでもあった。何はともあれ、私は彼女にまず「ありがとう」と言うべきだったし、そのあとは変に考え込んだりせず、彼女を褒めればよかったのだ。もちろん、無理にお世辞を言う必要がないのは重々承知だ。けれど、少なくとも私は、普段から彼女の素敵だと思う部分を見つけては言葉にするタイミングを逃し、心に秘めたままにしていた。だからあれは私にとって、 間違いなく、これまで彼女に伝えてこなかった言葉たちを伝えるチャンスだったのだ。ああ、なんであの時に言えなかったんだろう。誰もいないトイレの個室で一人立ち尽くす私の肩に、じわじわと後悔が積もり始める。
私から発せられるはずだったたくさんの言葉のかけらたちが、行き場を失って少しさみしげな表情をしている。なんだか私までさみしくなってくる。もしその言葉たちがちゃんと私の声帯を通り、空気の振動として発せられ、この世に存在したなら。その音が相手の耳にまでちゃんと届き、込められた意味を私が意図していた通りに理解してもらえていたなら、どんなに良かっただろう。そうなっても良かったはずの私の言葉たちは、あのとき一体どこに隠れていたのだろう。あるいは、私は一体どこに隠してしまったのだろう?
……ついにこの世に存在することのなかった言葉たちと、それを生成するはずだった私は、一緒に行き場をなくしてしまった。誰もいないトイレで1人、私は彼女の髪の色がとても綺麗だということを、ただぼんやりと考えていた。
夕方の透明を唇に纏う
夕方のようなリップグロスをもらった。
まるで夕空をちいさな容器にぎゅっと閉じこめて、その奥に隠れたちいさな星々の予感を散りばめたみたいだ。その途方もない時空の密度に、液体はとろりと蜜のように濃い。数えきれないほどの生き物たちの、数えきれないほどのよろこびやかなしみにまつわる物語が、そこに詰まっているように思えた。
夕方はどうしてあんなに透明なんだろう。泣けるほど透明なんだろう。透明はなぜ青いのだろう。なぜ青はかなしみを連想させるのだろう。
夕方をまぶたの裏に映しだそうとすると、なぜその目線は普段よりずっと地面の近くにあるのだろう。私はまだ世界を知らず、大人たちのあたたかな腕に守られていて、たまにこうして感じる孤独が心細くて仕方がない。倒れた自転車、擦りむけた膝に滲む鮮やかな血、手のひらにはりつく砂利とそのぼこぼことした跡。私は私のものでしかない痛みを抱えて、透明な夕空の下、圧倒的にひとりだ。込み上げる涙を堰き止めながら、ゆっくりと息をする。私の存在を確かめる。夕方からは果てしない孤独と絶望的な自由の匂いがする。
高校校舎の屋上には私がいて、彼女もまた同じ匂いをかいでいる。澄み渡った空を見上げ、傘を片手に柵にもたれかかっている。顔がわずかに濡れているが、雨は降っていない。考えているのは、一瞬だけ私の前に現れた夢のような転校生のこと。無口で、いつも長袖を着ていて、あたたかい雨のような人だった。よく一人で音楽を聴いていた。私もその音楽が好きになった。君は遠い昔の夕立と一緒にどこかへ消えてしまって、私はもうそのことをほとんど思い出さない。
今、屋上へつながる錆びた鉄の扉には立ち入り禁止の張り紙が無遠慮に貼られていて、その上厳重に施錠されていることを私は知らない。現実か夢かあやふやな記憶はそのまま墓場へと歩みを進め、私とともにひっそりと消滅し、二度と世界に介在しない。いや、元からそんなものはどこにもなかったのかもしれない。あれはなんだったのだろう。誰にも分からない。誰も私を知らない。もう誰もいない。
誰もいないけれど、確かにそこにいた。
確かに涙は流れていた。いつか、とても昔のこと。眼から落ちていく涙はどこまでも透明で、それは完全に失われた時間への憧憬と、ちいさな絶望の色をしていた。
あなたの小さな二つの目は、透明な液体の膜の向こうに、慣れ親しんだ街を映している。見上げれど、見下ろせど、夕方の街はダムの底の旧い街と全く同じ様相をもって、真水の中にとぷりと沈んでいる。あなたもその中の一部だ。私は時折、夕方になるとあなたの姿をどこかで見かける気がする。
涙は落ち、頬を伝い、少し横に逸れ、唇に達する。しょっぱさを感じた唇は固く閉ざされ、みずみずしい光沢をたたえる。そこでは宝物のような孤独や、叶うことのなかった予感、そして今もこうしてここにあるあなたの存在などが、夕空の光を反射してまばゆいばかりに姿を映している。その様子は、きっとただただ綺麗だ。
つやめく唇を通じて次に発される言葉が、どうかしずかな絶望と抗うことのできない生への渇望に満ち満ちていてほしい。
まぶたを閉じて空気を大きく吸い込むと鼻の奥がツンとして、やはり夕方は透明だった。
私は本当に帰れるのか? - メモ
「一度外にでてしまったら、帰ることなんてできないのよ外にでるっていうのはそういうことなのよ」
死んだら遺骨をジュネーブの大噴水でぶっ放して欲しい
毎秒500リットル (132ガロン) の水が2,400ボルトの電圧で、2つの500kWポンプから、高さ140メートル (459フィート) まで噴出され、1メガワット以上の電力を消費する。水は、200km/h (124mph) の速度で噴射される。放出時の瞬間には、約7,000リットル (1849ガロン) の水が空気中にある。風向の僅かな変化により、噴水(湖の左岸から石の突堤経由で到達することがある)を見ている観光客はずぶ濡れになる。出典元:大噴水 - Wikipedia