おつかれさまでした

意味のないことを書きます

夕方の透明を唇に纏う

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夕方のようなリップグロスをもらった。

まるで夕空をちいさな容器にぎゅっと閉じこめて、その奥に隠れたちいさな星々の予感を散りばめたみたいだ。その途方もない時空の密度に、液体はとろりと蜜のように濃い。数えきれないほどの生き物たちの、数えきれないほどのよろこびやかなしみにまつわる物語が、そこに詰まっているように思えた。

 

夕方はどうしてあんなに透明なんだろう。泣けるほど透明なんだろう。透明はなぜ青いのだろう。なぜ青はかなしみを連想させるのだろう。

夕方をまぶたの裏に映しだそうとすると、なぜその目線は普段よりずっと地面の近くにあるのだろう。私はまだ世界を知らず、大人たちのあたたかな腕に守られていて、たまにこうして感じる孤独が心細くて仕方がない。倒れた自転車、擦りむけた膝に滲む鮮やかな血、手のひらにはりつく砂利とそのぼこぼことした跡。私は私のものでしかない痛みを抱えて、透明な夕空の下、圧倒的にひとりだ。込み上げる涙を堰き止めながら、ゆっくりと息をする。私の存在を確かめる。夕方からは果てしない孤独と絶望的な自由の匂いがする。

高校校舎の屋上には私がいて、彼女もまた同じ匂いをかいでいる。澄み渡った空を見上げ、傘を片手に柵にもたれかかっている。顔がわずかに濡れているが、雨は降っていない。考えているのは、一瞬だけ私の前に現れた夢のような転校生のこと。無口で、いつも長袖を着ていて、あたたかい雨のような人だった。よく一人で音楽を聴いていた。私もその音楽が好きになった。君は遠い昔の夕立と一緒にどこかへ消えてしまって、私はもうそのことをほとんど思い出さない。

今、屋上へつながる錆びた鉄の扉には立ち入り禁止の張り紙が無遠慮に貼られていて、その上厳重に施錠されていることを私は知らない。現実か夢かあやふやな記憶はそのまま墓場へと歩みを進め、私とともにひっそりと消滅し、二度と世界に介在しない。いや、元からそんなものはどこにもなかったのかもしれない。あれはなんだったのだろう。誰にも分からない。誰も私を知らない。もう誰もいない。


誰もいないけれど、確かにそこにいた。
確かに涙は流れていた。いつか、とても昔のこと。眼から落ちていく涙はどこまでも透明で、それは完全に失われた時間への憧憬と、ちいさな絶望の色をしていた。

あなたの小さな二つの目は、透明な液体の膜の向こうに、慣れ親しんだ街を映している。見上げれど、見下ろせど、夕方の街はダムの底の旧い街と全く同じ様相をもって、真水の中にとぷりと沈んでいる。あなたもその中の一部だ。私は時折、夕方になるとあなたの姿をどこかで見かける気がする。

涙は落ち、頬を伝い、少し横に逸れ、唇に達する。しょっぱさを感じた唇は固く閉ざされ、みずみずしい光沢をたたえる。そこでは宝物のような孤独や、叶うことのなかった予感、そして今もこうしてここにあるあなたの存在などが、夕空の光を反射してまばゆいばかりに姿を映している。その様子は、きっとただただ綺麗だ。

つやめく唇を通じて次に発される言葉が、どうかしずかな絶望と抗うことのできない生への渇望に満ち満ちていてほしい。

 

まぶたを閉じて空気を大きく吸い込むと鼻の奥がツンとして、やはり夕方は透明だった。